「黄昏の君 ヴォルフィーネ〜真昼の国と月の国〜」 第一部のあとがき
:2016/9/10
ときてっと

□はじめに

 あとがき第二回目、今回は「黄昏の君 ヴォルフィーネ」第一部「〜真昼の国と月の国〜」のセルフ・レビュー、ライナーノーツ的振り返りだ。
 勿論本編のネタバレを多分に含む内容なので、このあとがきは作品を楽しんだ後に読んで頂ければ幸い。


□「黄昏の君」、三人のメイン・キャラクター

 「黄昏の君〜」のシナリオを書いたのは「リズベルルの魔7」のシナリオを書き終えてすぐの事だった。「7」に予告を入れる関係上、シナリオやロゴ、メインキャラクター3人のデザイン、そしてメカデザインもその時点で完成していなければならず、かなり先行して作っていた事を覚えている。
 超大作と化した「リズベルルの魔」の次の作品なので、本作は色々な意味でコンパクトな作品にしようと言う事は初めに決めていた。 
 本作から、「ほんとうの物語シリーズ」は「図書館編」から「劇場版」へと移行した。
 読者を作品世界に取り込むためのギミックとして機能した「ほんとうの図書館」が「リズベルル」の最後で役目を終えた為である。
 二度同じ仕掛けは使えまい……という事で、新たに登場したのは「ほんとうの物語劇場」。
 このパートは完全に本編とは分離し、作品のガイダンスコーナーとなった。また「劇場版」と言う事で物語をよりコンパクトにまとめる箱の役割も果たす。
 そんな「ほんとうの物語劇場」最初の上映作品は「黄昏の君 ヴォルフィーネ〜真昼の国と月の国〜」。真昼の国に生まれた王女フィモシーの無垢なる少女時代を描く一篇である。
 「此処では無い何処か、今では無いいつかの、ほんとうの出来事」と言う概念は引き継ぐ形となったが、「リズベルル」では劇中世界と現実の世界が等価であると示す形で物語が真実であるとしたのに対し、「黄昏の君」では主に吟遊詩人ヴィルヘムの語る物語や伝説が、フィモシーの前で息を吹き返し、蘇る……と言う形で「ほんとうの物語」とした。

 本作の主人公兼ヒロインであるフィモシーは、地上に生まれ落ちた太陽だ。
 その純真な心で人々を照らし、幼くも気高く、何れは王となるさだめの少女である。
 フィモシーは運命づけられた旅を通じて自分がいかに愛されていたか、守られていたかを知る。
 儀式を通じてフィモシーの心に響く楽園の言葉は、彼女自身が元々持っていた輝きだ。
 かつて父や、その前の王もまた、儀式を通じて同じ啓示を得たのだろう……詠み人の儀式とは、王の資質を自覚する為の通過儀礼なのであった。
 フィモシーは遍く世界を照らす無垢なる輝きをその胸に宿した少女である。
 その直向きさと純粋さが、闇に閉じられた真昼の国を、そして影に生まれ屈折した闇を抱くヴィルヘムの心もまた眩く照らす。
 しかし物語の初めで仄めかされる通り、その純粋さは、何れ失われるものだ。
 物語が閉じた後、近く……フィモシーの少女時代は終わりを告げる。
 通過儀礼として用意された道を超えた先にある、広い世界。
 そこで待ち受けるのは、理不尽な現実。優しさと真心だけでは渡ってゆけない真実の世界だ。
 フィモシーは大人になる。まして彼女は何れ王として人々の上に立つさだめ。世界の醜い部分と向き合った時、彼女の持つ純真さは曇り、淀み、やがて失われてしまうだろう。
 そして、色褪せた世界への失望と、それでも尚望まずにはいられない小さな希望を胸に、彼女はもう一度、あの神殿へ足を踏み入れる事になる。
 その場面こそが、物語の中で描かれる三つめの試練に他ならない。
 そこでフィモシーは出会う。第三の試練に立ち向かう、幼い頃の自分に。
 眩い光をその内に宿したかつての自分と向き合った時、その輝きが時空を超え、曇り、淀み、大人になってしまった自分をも照らしてくれていたのだと気づいた時、フィモシーは真に救世の騎士となる。
 世が闇に覆われし時、救世の騎士、深き眠りより目覚める……物語の冒頭で流れるこの一節の真の意味が明らかになるのは、実はその時かもしれない。
 人が誰しも生まれながらに持つ純粋さ、やがて失われるからこそ尊いもの。
 これが「黄昏の君」の物語の核心であり、一つのテーマである。
本作の基本はシンプルで素朴なファンタジー・お伽噺だが、主人公であるフィモシーの純粋さを失われるものとして描いた事で、幸せの中に少し寂しい様な、切ない様な、郷愁めいたものとして描く事が出来たのでは無いだろうか。

 物語の中で重要な役割を果たすもう一人の人物、吟遊詩人ヴィルヘムは、物腰柔らかな表面とは裏腹に、繊細で屈折した人間だ。
 ある意味それは、大人になり現実を知るであろうフィモシーの未来の姿でもある。
 太陽王と娼婦の間に生まれたヴィルヘムは、コンプレックスの塊である。
 母から聞かされた自身の生まれ……それが真実であると心の何処かで認めながらも、最後の一線で母の言葉を信じ切れず、信じ切れないままに父であるかもしれない王を憎む。
 膨れ上がった憎しみをぶつけようと遂に対峙したその時、太陽王フォルストーはしかし、ヴィルヘムの出自を一目で見抜き、受け入れた。
 感銘を受けたヴィルヘムはフォルストーと、腹違いの妹であるフィモシーに心酔にも近い想いを抱いて行くようになる。
 しかし尊い輝きであるフィモシーは、影に生きるヴィルヘムには眩しすぎる存在だ。
 地上の太陽を前に、彼は苛まれる様になる。
 母の言葉は本当に真実なのか? 自分を受け入れてくれたかに見える父は、一時気を許した娼婦の子である自分に同情しているだけでは無いのか? 仮に両親の語る言葉が真実だとしても、自分の中に流れる卑しい血の存在は無視できない。太陽の血を誇りに思えばこそ、その思いは募ってゆく。母を愛すると同時に嫌悪している自分の存在に気づかずにはいられない。そんな事を考えてしまう自分の存在そのものが許せなくなる。
 その不安や行き場の無い苛立ちは、何も知らず自分に心からの笑顔を向けてくるフィモシーへの屈折した想いとなってヴィルヘムの中で膨らんでいった。
 太陽と影の間に生まれた彼もまた、狭間の存在。
 黄昏の君なのだ。
 メレス達が自分の言葉で惑った事に加え、フィモシーが召喚した黄昏の君ヴォルフィーネが自身の血で目覚めた事。
 そしてその鎧を身に纏う事で遂にヴィルヘムはその身に流れる太陽の血の証を手に入れ、母の言葉が真実であり、父の想いがほんとうのものである事に確信を得た。
 決闘の果て、月光王シェイダに討たれる事でヴィルヘムの中のフィモシーへの屈折した愛情は穢れの無い真実の愛へと姿を変え、そしてフィモシーの純真な輝きに照らされる事でようやく、ヴィルヘムはフォルストーを父と呼ぶ事が出来たのである。
 ヴィルヘムは眩い輝きから伸びる影。
 物語の影の主役と言える存在だろう。

 そして第三のメイン・キャラクター。
 月の国を統べる若き王、月光王シェイダは王の資質と実力を備えた人物であり、理想を体現できるフィモシーの先輩であり目標となる人である。
 国と民の為に力を尽くし、元はごろつき集団だと言う騎士達からも慕われる反面、血を分けた三人の兄達とのわだかまりは抱え込んだままでいる。
 ままならぬ現実を前に何処か諦めに近い心境で、しかしそれを上手く押し込め、大人らしく振舞う……それはいずれ純粋さを失くしたフィモシーが辿り着くであろう一つの賢い大人の像でもある。
 初めは敵として登場するシェイダだが、中盤からはヴィルヘムに変わってフィモシーを支える立場に変わる。フィモシーの同行者や目的が、コンパクトな物語の中で流れる様に変化していくのも、本作の見所の一つだろう。
 シェイダもまた、フィモシーの幼さ故の輝きに気付きを得た一人だ。
 フィモシーの語る子供の理屈が、無邪気な少年時代を想起させ、シェイダを前向きにさせる。
 それはフィモシーにこれから起こる成長と変化、影ってゆく無垢なる心が、やがてより強い光を得て蘇る事の暗示でもあるのだ。
 「黄昏の君〜」ではこの様にありふれたものを真摯に描こうと心掛けた。
 斜に構え、大人ぶった誰かが、陳腐であると一笑に付してしまいそうな子供の理屈の中に、確かな真心があると見抜いてくれるほんとうの大人、それがシェイダだ。
 「黄昏の君〜」は奇を衒った表現も、特別に派手でショッキングな場面も無い。
 強いて言えば巨大ロボットと見紛う鎧が登場するくらいだろう。
 前作「リズベルルの魔」と比べてスケールダウンもした為に、少なからず退屈に感じた読者がいた筈だ。
 しかし「黄昏の君〜」はそんな誰かを、いつか無垢なる輝きで照らしてくれる、その為の物語なのである。
 いつか大人になった時、この物語を思い出して、こう思ってくれたら嬉しい。
「今なら判る」と。


□「黄昏の君」が出来るまで

 さて、本作は劇場版を意識した為、プレイ時間は2~3時間程度。
 前作と比べるとコンパクトな作品で、あまり遊びの部分も無い為、キャラクターやコンセプトを語れば上述の通り本編の詳細な振り返りになってしまう。
 キャラクターの解説は3人のメイン・キャラに留め、此処からは前作「リズベルルの魔」も踏まえたあとがきとしよう。
 という事でここから先は「黄昏の君〜」、そして「リズベルルの魔」シリーズを読み終えてから目を通して頂きたいと思う。

 「黄昏の君〜」が今の形になるまでには、いくつか案があった。大きくは二つ。
 まず一つは、「リズベルルの魔」を侵略者側……つまり劇中で「虚無」と呼ばれた、本編とは別な可能性世界のお話を作ってはどうか……と言う案。
 もう一つは漠然としたイメージ。まだ幼いお姫様が敵国との戦争を止める為、旅に出る。そのさなか、大昔に封印された国の守り神(=巨大ロボットだ)を目覚めさせる為の「歌」の存在を知り、ばらばらになったその歌詞を集める事を決意する……と言うもの。
 色々と悩んだ結果、この二つの案を合体させ、不要な要素をそぎ落とし、前作よりもコンパクトにまとめたものが「黄昏の君〜」となったのである。



□「黄昏の君」と「リズベルル」

 「黄昏の君〜」は「リズベルル」の未来の話だが、それは直接の未来では無い。
 「リズベルル」のヒロインであるリズベルルが生きたエンダージェン国とは異なる可能性世界。前作の劇中では虚無や黒海と呼ばれた平行世界の未来のお話である。
 この世界では、リズベルルは幼くして死に、彼女の生存する世界を望み、過去を変える為に水門を越えたノルアードはその先で自身の鏡像(本編のノルアード)に討たれ、その意志を継いだジンは魔王となってエンダージェン国に侵攻を仕掛ける……あとは「7」で描かれた通りである。
 そう言うバックグラウンドで展開されるため、両作品を跨いで登場する共通のキャラクター、エルデイルは「リズベルル」に登場したエルデイルとは別人だ。
 正確に言えば、途中までは同一人物だったが、何処かで分岐したもう一つの存在という事になるだろう。
 同じく「黄昏の君〜」ではヴォルフィーネと名付けられた鎧は、「リズベルル」の主役であった方のヴィルフォーナでは無く、「7」の後半でジンの前に立ちふさがった黒いヴィルフォーナの方なのだ。
 なんだかややこしいが、これは「黄昏の君〜」が「リズベルル」のミスリードになるよう狙った仕掛けでもあった。
 つまり、「黄昏の君〜」を先に読んだ人は、「リズベルル1」を読んだ時にヴォルフィーネ=ヴィルフォーナだと思うが、読み進めるとなんだかおかしい……もしかして……と言う気持ちで「7」まで進んでようやく確信を得る……あ、こっちじゃない、こっちだ! と言う様な、驚きと面白みのある構造だ。
 作品の原案となった、お姫様が古の歌の歌詞を集める……と言うアイディアは、フィモシーが聞く楽園の言葉と言う形で拾っている。
 つまり、「リズベルル」で何度もリズベルルが唱えた呪文でありおまじない。
 「海を断ち」「天舞う音色」「ヴィルフォーナ」の言葉がそれだ。
 フィモシーは悠久の昔、伝説の時代から響くこの言葉を聞いて、それを自身の内なる言葉として理解する。
 現れた鎧の名も試練の中で聞いたはずだが、それはあまりにも古い言葉で、か細く、ノイズ混じりにようやく届いたものだから、辛うじて輪郭のみを繋ぎ合わせ、フィモシーはヴォルフィーネと新たに名付けるのである。
 ヴォルフィーネとエルデイル、そして太陽の船は「リズベルル」からの引用だが、これらは全て「黄昏の君〜」の為に新たに生まれ変わった物語の要素だ。
 「黄昏の君〜」は「リズベルル」を知っている事が前提の物語では、必ずしも無い。
 何故なら、虚無の世界で生き、戦ったエルデイルやヴォルフィーネの過去の、伝説の時代の物語の詳細は、「リズベルル」で明らかになるものでは無いからである。
 彼らの物語は、現時点(2016年)では誰も知らない物語だ。
 ヴィルヘムの語る伝説の断片や、「リズベルル」の完結篇と照らし合わせて僅かに触れる事が出来るばかり。
 それは読者にとっても、フィモシーにとっても、ずっとずっと昔の、お伽噺の中の出来事。
 お伽噺だと思っていたその伝説が実在し、蘇る事こそが、「ほんとうの物語」である……とは先に述べた通りである。
 本作に登場する聖獣メレスは前作に登場するレギオンに相当する生き物、そして大型の鎧奏騎を指すガスメイガスは前作のガストルフ級弦奏鎧に相当するが、これらのワードも「リズベルル」からの引用で、前作を補完しつつ、新たなイメージを加えている。
 特に鎧奏騎の心臓部として銀昌石と言うものが新たに登場したが、これを前作と照らし合わせると……と、色々と想像してみるのも楽しいかもしれない。
 また、本作では正体不明の脅威として描かれる闇竜もまた、「リズベルル」と共通した設定だ。
 この闇竜の正体は、「黄昏の君〜」では伝説としてしか描かれない。
 フィモシーとシェイダがその正体を考察するシーンがあるが、結論は出ないままだ。
 「リズベルル」ではもう少し詳細に語られるが、その存在は名状し難く観念的な存在であるとされ、不可解な点も多く残る。
 物語を作る上で謎は解かねばならない。けれど不思議は残すべきだ。
 闇竜の存在は、「ほんとうの物語シリーズ」の不思議の一つなのである。
 
 「リズベルル」に引き続いて、再び物語の中で大きな役割を果たす事となった“ヴォルフィーネ”だが、デザイン面でも一部変更がある。
 「リズベルルの魔7完結篇」、最後の戦いにおいて黒いヴィルフォーナは、虚無化する前には両肩に2枚の帯状のマントを付けた姿で登場するが、本作のヴォルフィーネは一枚の大きな布状のマントを纏った姿だ。
 カラー設定も調整され、3Dモデルも一部に修正がある。
 特に「7」で折れた剣は新調されて、片手剣から柄の長い両手剣に変わった。
 最も変化があるのは大いなる翼こと飛竜形態。「リズベルル」では人型形態と竜形態のパーツは基本的に同スケールだったが、本作では完全変形を無視して飛竜形態では翼が大型化。四肢のバランスにも変更が加えられている。
 また、「7」で描かれた通り、ヴィルフォーナとヴォルフィーネではヴォルフィーネの方がスペックが上(ジンは剣主達の力を借りてようやく渡り合えたが、纏い手を抜きにしても)……と言う様なイメージがあったので、翼からエネルギーを発生させ全体の印象をボリュームアップさせる演出を加えてみた。
 もともとヴィルフォーナは主役だけあり、シリーズでは人気の高いデザインだったが、本作のヴォルフィーネはより格好良く生まれ変わったのでは無いだろうか。
 特に飛竜形態の打ち上げシーンは前作とは異なるイメージもあって気に入っているシーンだ。

 本作より新たに登場するメインメカ、鎧奏騎・ディムラの涙と楽園のジルアース。
 前者は月を、後者は太陽を象徴する直球なデザインで、2体とも主役級と言う心構えで製作した。
 本作では「リズベルル」より少しだけ画面をリッチにしようと言う思いがあった為、2体とも前作のメカ群よりもちょっぴり豪華なデザインである。
 本編ではヴォルフィーネと揃って主役級であるディムラの涙はともかく、楽園のジルアースはほぼ、オープニングムービーのみ出演。一応味方側では最強の鎧……と言う位置づけなので作品紹介のページなどではディムラの涙より前に紹介しているのだが、これは本編への完全な引っかけになってしまった。
 尤も、……最強の鎧が身近にあるのに、取りに戻る事が出来ない……と言う展開。実は普通に活躍するよりも良い立ち位置かもしれないと密かに思うものである……。
 登場メカの中では、物語後半で活躍する浮き船、そよ風のエリューナも外せない。
 前作に登場した飛行船や戦艦に比べると大人しいデザインだが、それだけに身近な存在感を描けたと思っている。
 ところで、浮き船や砂漠に浮かぶ神殿の浮力の源となっている浮石。
 実は真昼の国の城の空中庭園を支えているのもこの浮石で、ビジュアルのみで説明しているのだが気づいた人は居ただろうか……?


□第二部と次回作

 本作、「黄昏の君 ヴォルフィーネ」はもともと1作のみで完結する作品としてアナウンスしていたが、一本これまでのシリーズとは趣の異なるジュブナイルもの(としているが実際は児童文学のカテゴリだろう)を挟んだ後、第二部を製作しようと考えている。
 実はシナリオは既に完成済み。かなり筆が乗って、2週間程で書き上げてしまったが、内容は物語のドラマ面を掘り下げた超大作だ。
 「黄昏の君〜」は劇場版をコンセプトとしている為、メイン・キャラクター以外のドラマや世界設定等の要素は仄めかし程度に留めているが、それらを存分に活かした内容となっている為、第一部「〜真昼の国と月の国〜」を読んでくれた方は是非第二部も続けて読んで頂きたい。
 前述の新作ジュブナイルもの「ツチノコ探検隊〜みゅうがいた夏〜」も今年、2016年冬に公開される予定なのでこちらもお楽しみに。
 少年少女のひと夏の“ふしぎ”を描いた作品で、「ほんとうの物語シリーズ」的にも重要な一篇となるストーリーなので、シリーズを通して楽しんでくれている方にも満足いただける一作だ。

 

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